平成5年の試験終了後、自分にとって、必須科目の穴を無くし、選択科目の充実が最終合格には必須事項であることが明確になった。 5回の失敗を経た平成5年11月、私はようやく穴を作らず、自身の最善を尽くそうという気持が芽生えた。これ以降、好きな部分だけをチョコチョコと勉強するというような、中途半端な姿勢を改め、隙のない勉強をここに至って、ようやく心がけるようになった。
平成5年の暮れから平成6年にかけては、今までで最も勉強した期間となった。この年は、Mゼミに顔を出す時間も減ったが、マイペースで進めることが私にとって重要だった。当時は焦りもなく、達観した気持で勉強を進めることができた。
本番の二次試験では全科目とも余裕を持って回答することができ、逆に、今回の試験に落ちたら、どのような勉強をすれば良いのかと云った恐怖心を持ったことも事実である。
二次試験の合格発表の際は、上京していた母親と特許庁へ見に出かけた。自分の名前があることを確認すると、感激の気持で一杯になったが、落胆している他の受験生もおり、はしゃぐような事はなかった。落ちた受験生の気持ちが、痛いほど自分も分かっていた。
三次試験は特許庁にて行われたが、試験委員の方の助け舟もあって、無事最終合格を果たすことができた。平成6年度の合格者は108名で、合格率2.8パーセントであった。その後、平成7年に弁理士登録した。 私が弁理士となり、特許事務所を開設し得たのは、多くの仲間の支えがあってのことである。私に弁理士という資格があることを教えてくれた高校時代の同級生のS・O氏との出会い、又、Mゼミを作って下さった前述のA・W先生、並びに、T・O先生やM・S先生が講師となって金曜日や土曜日など、貴重な時間を割いて、講義や答練の出題及び採点をしてくれたのは本当に有り難く、感謝してもしきれない。 また、特許実務に未経験の私を採用し、実務習得の機会を与えてくれた、K・M先生、Z・K先生、S・T先生のご恩も、わすれることはできない。また、特許事務所勤務時代や、特許流通アドバイザー時代を通じて知り合った数多くの友人にも貴重な示唆を頂き、独立して曲がりなりにも事務所をやっていける素地となっている。 私は順調に弁理士になり得たわけではなく、多くの失敗続きであったが、何とか合格まで頑張ることが出来た。しかし、私は本当に不器用なタイプであり、今後の人生も多分、失敗が多くなりそうである。 至らない私ではあるが、他人に大迷惑をかける決定的な失敗だけは回避しつつ、自分を最後まで信じ、知財の可能性を追求していきたいと思っている。 令和元年で弁理士登録から丸24年が経過したが、なるべく長く弁理士でいられるよう、健康面及び能力面を維持したいと思う。蛇足ではあるが、小生の弁理士登録時の弁理士数は4千人ほどと、現在の1万1千人を超える状況とは隔世の感があるが、その人数の増加は弁理士の層の厚さをもたらし、我が国における知財保護の環境が整備されつつあるという点では適正な規模といえるのかもしれない。 弁理士の基本的業務は、特許などの産業財産権の取得を円滑に行うことであるが、コンサルティング業務などに、業務のすそ野を拡げる必要性も、現実にクライアントと接触していると感じる。しかし、コンサルティングは、専門のコンサルティングファーム、企業などで、数多くの指導経験を積むことが必要であると思われる一方、弁理士の基幹業務である権利化業務や各種の事務手続に関しても、多年の経験・修練を必要とする。 そこで、小生としては、クライアントに寄り添ったコンサルティング的な対応を心がけてはいるが、権利化業務を自己の基幹業務とし、コンサルタント業務を安易に標榜することは避けている。 私は、平凡な地方の一弁理士に過ぎないが、生涯一弁理士となれるよう、慌てず焦らず、やっていこうと自己に言い聞かせている。 完 |
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