私の弁理士試験は平成元年より始まった。特許事務所に勤務を開始した2年目の事であり、年齢は27才であった。このころは終身雇用という事が当たり前の時代であり、周りの大学時代の同級生は、それなりに名の通った会社へ就職していた。しかし、地元志向・独立志向が強く、又、妙に融通の利かない性格の私は、故郷北海道の会社へ何となく就職したものの、自分がどのような職業を持つべきか模索していた。 かようなとき、高校時代の友人が、弁理士試験というのを勉強していることを小耳に挟み、その内容を調べると、理系の経歴を生かすことができて、新しい技術にも触れることができるとのことで、意外に自分に向いているのではと考えた。そして、昭和63年に、再度の上京を試み、当時、池袋にあった特許事務所に入所し、特許実務を積むことにした。私にとっての特許実務とは、発明を開示する特許出願用の明細書の作成が主であったが、当初は慣れない作業に四苦八苦したものの、半年程度で何となくコツをつかむことができ、この業界に自分が向いているということが、ある程度実感できた。そこで、将来の独立を夢見て、弁理士資格の取得にカジを切ったのである。 平成6年の弁理士試験の受験から、25年を経つつあるこの時期になって、今さら体験記もないのであるが、受験時代は私にとって人生の一大転機(ターニングポイント)の時代であり、備忘録として何らかの形で残しておきたいと考えた次第である。平成も終わり令和を迎えつつある今、それから31年も経ったというのは、本当に時間の経過を実感する。その頃と気持的には全く変わっていないつもりなのだが。 かような次第で、昭和63年秋頃から勉強を開始したが、当時は、いわゆる青本(当時は、工業所有権法逐条解説)の特許、意匠、商標、パリ条約、PCT各法の条文を丁寧に一つずつ読みこみながら、弁理士のG・I先生が解説をして下さるという内容で、私にとって非常に分かりやすかった。このゼミのお陰で、私の特許法などに対する理解が急速に進み、又勉強に対する意欲も出て来た。 しかし、弁理士試験は、一次試験の多枝選択式の他、二次の論文試験(当時は必須科目5つに加え、選択3科目の計8科目の受験が必要)、三次の口述試験と続く。これらの試験をクリアするには、それぞれの試験毎の勉強が当然あり、必要な勉強量として、3時間の勉強を3年間続ける必要があるというのだから、その多さは、私にとって、ひどく困難なことに思われた。平成元年の試験は一応一通り勉強したが、50点満点中自己採点で25点前後と、ボーダーラインの38点に遠く及ばず、勉強法の再考を促された。また、その年度より二次試験に向けて行われる答案練習会にも参加するようになったが、その記載分量は半端でなく、果たして私に出来るのかといった思いを更に抱く結果となった。この年は、受験機関に受講料を御布施する形になってしまった。かような次第で勉強に熱も入らず、スキー旅行に出かけてパンダ焼けし、G・I先生の顰蹙を買うなど、およそ受験生としては落第のような生活ぶりであった。 第2回に続く |
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