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コラムCOLUMN

「我が職業人生奮闘記」 岩城 全紀

第36回
~いよいよ昭和63年4月、特許事務所へ入所
 【前編】「弁理士以前」第三章
 スキー・インストラクターのアルバイトをしたことで、自分のスキーに対する才能・天分の無さを改めて痛感し、このままでは自立可能な生きるすべを身に付けることも出来ず、又、達成感を感じることも無く漫然と生き続けることになり兼ねないという、危機感をもった。2年弱の寄り道をしたが、自分は当初の予定通り特許の業界(今風の言葉でいうなら、知財の業界)で生きていこうと改めて決心した。

 そこで、昭和63年4月、東京は池袋の、K・M先生が所長を務めておられた国際特許事務所に入所した。某大新聞の募集広告を見て応募し採用して頂いた次第である。26歳になった直後のことであった。 同特許事務所での仕事は、取引先のメーカから上がってくる発明提案書に基づいて、特許出願又は実用新案登録出願用の明細書作成に関する補助的な業務がメインであった。勿論、発明者や特許担当者と面談し、発明の 要点をインタビューしながらの仕事もあったが、実務初心者の頃は、専ら 発明提案書から、発明の要点を把握して発明を概念化し、いかに分かりやすい文章に仕上げるかという点について指導を受けた。
 その頃、私は不明瞭な日本語で明細書を作成してしまい、その明細書を 外国出願する際、翻訳を担当している方から翻訳し易い文章が日本語としても良い文章であると云われて叱られたことがあるが、要は主語、述語を明確にし、関係代名詞の部分は少なくするような文章が良いのだろうと反省した次第である。

 発明提案書の一見何気ないような、ちょっとした記載に意味があり、その記載から発明の骨子、細部を読み取り、特許出願の明細書に漏れなく反映させるということを、所長のK・M先生や先輩諸氏から、口酸っぱく指導されたものである。 このことは、拒絶理由通知時に請求範囲を限定する場合に必要事項となることもあるし、又、権利化後においても特許発明の権利範囲を解釈する上で、重要なポイントとなる場合がある。

 その一方で、ノウハウなどの発明者・企業にとって開示したくない部分も当然あることは留意しておく必要があろう。 私が入所した特許事務所は、運よく後輩をていねいに指導してくれるところであり、その点、本当に感謝している。これは前述のK・M先生の人柄によるものであるということが、後に入った事務所との比較で分かった。事務所にも社風(所風)があり、社風にマッチした事務所に入ることが自己を伸ばすには当然必要である。後年、収入の多さに惑わされて、自分に合わない事務所に入って結果的に長続きしなかった失敗があったことから、その点は、このコラムを読んでくれている方々に強調しておきたい点である。目先の収入ではなく、所長の人間性を十分に吟味し、仕事のし易さや雰囲気、仕事内容を熟慮して、自己とのマッチングを重視せよということである。

 当時は、パソコンが今のように普及しておらず、紙に文字を記入して明細書の草案を作成し、タイピストによる清書という流れであったが、私の場合、入所後3か月ほどすると、富士通のオアシスというワープロ専用機をあてがわれ、それを使用して明細書を作成するようになった。オアシス独自のキー配列に基づく親指シフトという入力法もあったが、私は通常のローマ字入力によった。このワープロを使う様になって、作成した自分の文書を再読して反芻し推敲することが容易となり、自分にとっては紙に書くよりも仕事が、やりやすくなった次第である。

 事務所に入所して半年ほど経った頃、ようやく弁理士試験の勉強を開始した。当時は、昭和天皇が御病気にかかられており、連日のように、その容態が報道されていた。翌昭和64年1月に昭和天皇は崩御され、そのことを私は群馬県の鹿沢スキー場で知った次第である。このころ、私は、埼玉県の川越市に住んでいたことから当市のスキークラブに所属し、当日もクラブ行事のスキー合宿に参加していた。このスキークラブでは、前述のスキー学校とは異なる角度から改めてスキー技術の研鑽を図ることができた。このクラブ所属時は、他人に教えるという立場でないせいもあり、気楽に又、前向きにスキーに取り組むことができた。

 しかし、私にとっての本業は、あくまで特許実務を習得しつつ、弁理士試験を突破することである。スキーに打ち込むことは受験勉強を犠牲にすることに直結していたのだが、当時の脳天気な私は、そこまでの悲壮感はなかった。蛇足ではあるが、この20代の時期が、私にとってスキー技術のピークであったように思う。当時はカービングスキーとなる前で、私はロシニョールの3Gケブラーの2mの板を使用していた。安定性に優れ、大回りのターンでの安定性は素晴らしく、一方で小回りのターンもそれなりに可能であった。板を踏み込んだ時に加速するような滑走感は、現在、私が所有しているカービングの板では得られていない。

 昭和天皇の崩御後、元号が平成となり、ようやく弁理士になるための受験勉強を、事務所勤務の傍ら本格化した。まずは、当時通っていたD特許教育センターから紹介された、弁理士のG・I先生が主宰されている講義形式の個人ゼミに参加させて頂いた。このゼミは、G・I先生の論理的な講義で、私を急速に受験勉強に誘うものであった。このゼミのお陰で後に弁理士となり、同じ私鉄沿線に居住されていたT・O先生、A・W先生と知り合うことができ、この出会いは私の受験勉強に対する姿勢に関し、大きな転機をもたらしたことは特筆しておきたい。 つまり、この時期にT・O先生、A・W先生と出会わなければ、私が弁理士になれたかは微妙である。人生には良い出会い、一期一会が必要であることを今となって痛感するが、このような出会いを得るためにも自らをそのような場にもっていく勇気が必要である。 自信が持てない場合でも、ときには自らを奮い立たせて、自分が興味を持てる場に出かけて行くことは、幾つになっても必要なことだと思う。恥をかくこともあろうが、それを恐れることはないし、理解してくれる人は必ず居るものである。私自身も謙虚さや他人に対する感謝の気持を一層身に付けて、人間が丸くなっていかねばならないと自戒している事柄である。

 話はかなり脱線したが、私の弁理士試験は、上記G・I先生のゼミに参加することで、試験勉強に対する意欲が発現し、ようやく平成元年より徐々に熱を帯びていった。特許事務所に勤務を開始した2年目の事であり、年齢は27才であった。大学卒業後に就職した札幌の上記の「株式会社マ*マ」に入社してから3年ほどの歳月が経過していた。私は、前述したスキー学校への寄り道もあって、中々、弁理士試験の勉強に熱が入らず、本格的な勉強に至るまでに時間が掛かってしまったのは、何事も始動が遅い自分の欠点によるものである。 結果的に弁理士になることができたが、大学などの入試と異なり、弁理士試験には受験回数の制限がなく、自己のペースで勉強を進められる点が、私にとっては幸いした。 大学入試の場合も確かに回数制限はないが、社会的事情から自ずと精々2,3回に限定されるだろう。その点、弁理士試験は仕事をしつつ、徐々に知識を向上させていくことが許容されており、自分が諦めさえしなければよいわけである。十数回を経て弁理士となった方もいらっしゃるし、私の場合は受験回数6回と、それなりの期間を要している。 しかし、家庭その他の事情で受験勉強を断念しなければならなかった方が居るのは事実であり、私は、そのような方達の分まで頑張らねばならないとも感じる。

 一方、知的財産の業界に生きる上で、弁理士になることは必ずしも必須ではないとも思う。特許事務所では所長や知財部長の片腕となって弁理士顔負けの活躍をされている方は、ある程度の規模の事務所、若しくは企業の知的財産部には居らっしゃるものである。そのような事実から資格の取得は必ずしも必須とはいえず、その人の置かれている環境や、目指す方向性に合わせていけば良いと私は考える次第である。 私の場合で云えば、故郷北海道での独立開業という目標があったことから、どうしても資格の取得は必要だった。要するに弁理士資格というのは、特許事務所を開設する際に要求される開業免許ともいわれる所以である。
                          第37回に続く

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