・特許事務所での実務習得 スキー・インストラクターのアルバイトをしたことで、自分のスキーに対する才能・天分の無さを改めて痛感し、特許庁での審査官の活躍を見るにつけ、このままでは自立可能な生きるすべを身に付けることも出来ず、又、達成感を感じることも無く漫然と生き続けることになり兼ねないという危機感をもった。自分は当初の予定通り、特許の業界(特許等を出願する側)で生きていこうと改めて決心した。 そこで、昭和63年4月、東京は池袋の、K・M先生が所長を務めておられた国際特許事務所に入所した。某大新聞の募集広告を見て応募し採用して頂いた次第である。大学卒業後、株式会社マグマでの勤務、スキー学校、特許庁でのアルバイト期間も含めて2年が経過し、26歳になった直後のことであった。 同特許事務所での仕事は、取引先のメーカから上がってくる発明提案書に基づいて、特許出願又は実用新案登録出願用の明細書作成に関する補助的な業務がメインであった。勿論、発明者や特許担当者と面談し、発明の要点をインタビューしながらの仕事もあったが、実務初心者の頃は、専ら、発明提案書から技術の要点を把握して発明を上位概念化し、且つ分かりやすい文章に仕上げるかという点について指導を受けた。 その頃、私は不明瞭な日本語で明細書を作成してしまい、その明細書を外国出願する際、翻訳を担当している方から翻訳し易い文章が日本語としても良い文章であると云われて叱られたことがあるが、要は主語、述語を明確にし、関係代名詞の部分は少なくするような文章が良いのだろうと反省した次第である。 発明提案書の一見何気ないような、ちょっとした記載に意味があり、その記載から発明の骨子、細部を読み取り、特許出願の明細書に漏れなく反映させるということを、所長のK・M先生や先輩諸氏から、口酸っぱく指導されたものである。 このことは、拒絶理由通知時に請求範囲を限定する場合に必要事項となることもあるし、又、権利化後においても特許発明の権利範囲を解釈する上で、重要なポイントとなる場合がある。その一方で、ノウハウなどの発明者・企業にとって開示したくない部分も当然あることは留意しておく必要があろう。 ・特許事務所にも社風あり 私が最初に入所したK・M先生の特許事務所は、後輩をていねいに指導してくれるという雰囲気があり、その点、本当に感謝している。これはK・M先生の人柄によるものであるということが、後に入った事務所との比較で分かった。事務所にも社風(所風)があり、その社風に自分がマッチするか否か、扱っている技術に関して興味を持つことができるかを十分に検討することが、自己を伸ばすには当然必要である。後年、収入の多さに惑わされて、自分に合わない事務所に入って結果的に長続きしなかった失敗があったことから、その点は、このコラムを読んでくれている方々に強調しておきたい点である。目先の収入ではなく、所長の人間性を十分に吟味し、仕事のし易さや雰囲気、仕事内容を熟慮して、自己とのマッチングを重視せよということである。 池袋の特許事務所での勤務当時(昭和63年頃)は、パソコンが今のように普及しておらず、紙に文字を記入して明細書の草案を作成し、タイピストによる清書という流れであったが、私の場合、入所後3か月ほどすると、富士通のオアシスというワープロ専用機をあてがわれ、それを使用して明細書を作成するようになった。オアシス独自のキー配列に基づく親指シフトという入力法もあったが、私は通常のローマ字入力によった。このワープロを使う様になって、作成した自分の文書を再読して反芻し推敲することが容易となり、自分にとっては紙に書くよりも仕事が、やりやすくなった次第である。 ・出願書類はB5からA4の時代へ、そして電子出願 昭和63年当時の特許出願の明細書はB5の時代であり、改善多項制(特許法第37条~出願の単一性)、国内優先権制度(特許法第41条、42条)がそれぞれ導入され、又、電子出願が始まろうとしている時期であった。電子出願が始まると、事務所はISDN回線への加入、出願用ワークステーションの導入、ほどなくして出願書類もA4となり、出願の単一性の拡大により、特許出願の記載分量も多くなりつつあった。このため、特許事務所は機器の導入費用などの投資も嵩んで、本当に大変な時期であったわけだが、当時の私は実務の習得に必死だったのと、仕事の面白さを感じた新鮮な時期でもあり、様々な技術に触れられるという弁理士の仕事の魅力に完全にハマったのである。 このように特許事務所での実務を通じ、弁理士の仕事は自分に合っているとの確信を持つに至ったことから、事務所に入所して半年ほど経った頃、D特許教育センターに通い、ようやく弁理士試験の勉強を遅まきながら開始した。当時は、昭和天皇が御病気にかかられており、連日のように、その容態が報道されていた。翌昭和64年1月に昭和天皇は崩御され、そのことを私は群馬県の鹿沢スキー場で知った次第である。このころ、私は、埼玉県の川越市に住んでいたことから当市のスキークラブに所属し、当日もクラブ行事のスキー合宿に参加していた。このスキークラブでは、前述のスキー学校とは異なる角度から改めてスキー技術の研鑽を図ることができた。このクラブ所属時は、他人に教えるという立場でないせいもあり、気楽に又、前向きにスキーに取り組むことができた。当該川越市のスキークラブでは、SAJ(全日本スキー連盟)テクニカル、指導員の資格を持つ先輩からスキーの基本動作であるプルークボーゲン、シュテムターンといった基本を徹底して指導され、このことがパラレルターンやウエーデルン等の上級技術へと進んだ際に非常に重要であるという事を再認識した。しかし、私にとっての本業は、あくまで特許実務を習得しつつ、弁理士試験を突破することである。スキーに打ち込むことは受験勉強を犠牲にすることに直結していたのだが、当時の脳天気な私は、そこまでの悲壮感はなかった。 蛇足ではあるが、この20代の時期が、私にとってスキー技術のピークであったように思う。当時はカービングスキーとなる前で、私はロシニョールの3Gケブラー(製品名)という、大回転用の2mの板を使用していた。安定性に優れ、板を踏み込んだ時に加速するような滑走感や、大回りのターンでの安定性は素晴らしく、ターン時の雪面からの圧力を十二分に感じることができ、一方で小回りのターンもそれなりに可能であった。 スキー学校在籍時は、大学生時代からの古いヘタリの来ていた板を使用しており、スキー技術の伸びが抑制された点は否めない。スキーというスポーツでは使用するマテリアルの影響が非常に大きく、フレッシュな道具を使うべきだったというのは反省事項である。スキーブーツのフィット感、硬さも重要な要素となる。今はカービングの板を使用しているが、従来のスキーと比較し、十分に使いこなせているとはいえない。加圧位置がピンポイント気味の板で、加齢や運動不足による筋肉量の衰えもあり滑走時に体幹が安定しないことが原因であろうとは思う。 ・弁理士試験受験勉強の本格化 昭和天皇の崩御後、元号が平成となり、ようやく弁理士になるための受験勉強を、事務所勤務の傍ら本格化した。具体的には、当時通っていたD特許教育センターから紹介された、弁理士のG・I先生が主宰されている講義形式の個人ゼミに参加させて頂いた。このゼミは週一回のペースで仕事の終わった火曜日の夜間に新富町の勤労福祉会館にて行われたが、G・I先生の論理的・且つユーモアたっぷりの講義は、私を急速に受験勉強に誘うものであった。G・I先生は自らも特許事務所を経営されておられる実務家であり、実際の業務と関連付けての講義内容は自分にとって大いにプラスになった。このゼミのお陰で後に弁理士となり、同じ私鉄沿線に居住されていたT・O先生、A・W先生(当時は両人とも受験生)と知り合うことができ、この出会いは私の受験勉強に対する姿勢に関し、大きな転機をもたらしたことは特筆しておきたい。 つまり、この時期にG・I先生、T・O先生、A・W先生と出会わなければ、私が弁理士になれたかは微妙である。人生には良い出会い、一期一会が必要であることを今となって痛感するが、このような出会いを得るためにも自らをそのような場にもっていく勇気が必要である。 自信が持てない場合でも、ときには自らを奮い立たせて、自分が興味を持てる場に出かけて行くことは、幾つになっても必要なことだと思う。恥をかくこともあろうが、それを恐れることはないし、理解してくれる人は必ず居るものである。私自身も謙虚さや他人に対する感謝の気持を一層身に付けて、人間が丸くなっていかねばならないと自戒している事柄である。 話はかなり脱線したが、私の弁理士試験は、上記G・I先生のゼミに参加することで、試験勉強に対する意欲が発現し、ようやく平成元年より徐々に熱を帯びていった。特許事務所に勤務を開始した2年目の事であり、年齢は27才になっていた。大学卒業後に就職した札幌の上記の「株式会社マグマ」に入社してから3年ほどの歳月が経過していた。私は、前述したスキー学校への寄り道もあって、中々、弁理士試験の勉強に熱が入らず、本格的な勉強に至るまでに時間が掛かってしまったのは、何事も始動が遅い自分の欠点によるものである。しかし、スキー学校での厳しい生活は仕事に対する責任感を醸成することに寄与したと思う。また、前時代的な言葉ではあるが、根性が身についたともいえる。 第4回に続く |
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