平成3年の弁理士試験は、前年の一次試験の合格経験が油断を招き、一次で不合格となり結果的に二次試験を受けることができなかった。この頃はアルバイトをしているとは言え、この一次試験不合格という事実は、浪人生の自分にとっては一大ショックであり、当時、受験勉強も止めてしまおう、といった放心状態に陥った。 この放心状態は一次試験の行われた5月下旬から数か月間続き、故郷の北海道に帰省中の秋ごろ、ようやく次の方針を決めた。即ち、浪人という不安定な身分ではなく、定職を持つことで生活を立て直そうと考え、心機一転を図って受験勉強を継続するために、新宿区のZ・K先生(後、弁理士会会長などを歴任)が所長を勤めておられた特許事務所を新たな勤務先として再就職した。このときは本当に勉強を止めそうになったが、何とか続けられた原動力は、前述の池袋の特許事務所での勤務経験から、自分には特許の仕事が合っているとの確信(過信又は盲信?)めいたものがあったからである。当時の私は仕事で、やり甲斐・生甲斐を感じたのは特許事務所での仕事が一番であった。だから是が非でも弁理士になって、特許の仕事を続けて行きたいと考えたことが、受験勉強継続の力になったのである。仕事は勿論、石にかじりついてでも受験勉強を完逐して弁理士になろうという気持が強かった一時期である。 余談ではあるが、Z・K先生の特許事務所では、勤務、及び弁理士試験の受験勉強の傍ら、所員旅行として中国返還前の香港に連れて行って頂き、当時の啓徳空港に着陸する際のスリルを味わったりと、今思えば平和なひと時であった。当時は建築関連分野の明細書作成補助を担当し、バブル経済の波もあり、月7,8件程度の明細書作成を行っていた。 特許出願も産めよ増やせよの時代で、会社の技術者には一種の発明ノルマが課され、不要不急の特許出願も結構あったように思う。日本の特許事務所も繁栄を謳歌していた一時期であったとも云えるが、昨今の出願件数の低落に伴って日本の技術力が低下しているのは、ある種の相関があるとも思う。一見不要とも思われる特許出願でも、発明ノルマが課されることで、技術者に何とか工夫する姿勢、又特許マインドを醸成する効用があったのだろうと、個人的には感じている。 余談だが、このような月に7,8件の仕事をこなすというのは独立した私の今の状況では考えられない。私の住む北海道の特質として、メインのクライアントは、どうしても中小企業とならざるを得ず、キチンと作成された提案書や図面がない場合も大いにある。従って、出願書類の作成には手間暇を要し、クライアントの会社や工場などに一度ならず二度三度と赴いて聞き取りを行ったりして、その打合せ事項を事務所に持ち帰り、先行技術調査も含め様々な質問などのやり取りを重ねつつ、明細書の作成作業を行う必要がある。このため特許出願は、多くても精々ひと月に2、3件程度といったところであろうか。 このような事情ゆえ、現在の弁理士一人の弊所の場合、処理できる件数も限られ、事務所勤務のサラリーマン時代のように月数件の特許出願を行うことは不可能である。北海道のような基幹となる製造業の少ない地方の特許事務所は、手間のかかる仕事を余儀なくされるといえるが、中小企業にとって1件の特許を取得することは大企業の比ではない重みがあり、地方に生きる弁理士として現実を受け入れ、クライアントとの人的関係を深めながら、共にやっているということになる。 第6回に続く |
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