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コラムCOLUMN

「我が職業人生奮闘記」 岩城 全紀

第6回
第一章~勤務弁理士時代
 【後編】「弁理士となってから」
 平成6年、弁理士試験には6回の受験を経るという四苦八苦の末、最終合格を果たしたが、その直後の平成7年、無謀にも故郷の札幌で独立開業を試みた。計画性もなく開業資金も不十分、且つ仕事のアテがあるわけでもなく心が不安感でさいなまれ、その年の秋頃に結局、閉鎖という情けない結果に終わった。この時点で、特許の本場である東京での更なる再修行の必要性を痛感し、アルバイトを行ったりと模索は続けたが、35歳となった平成9年(1997年)4月、再々度の上京(3度目の正直)を試み、ようやく東京新橋の特許事務所に正職員として入所した。ここでの仕事はオフィス家具や建設関連の明細書や意見書等の作成で、弁理士という肩書を貰ったせいか、所長弁理士のS・T先生には自身の実力以上の待遇で処遇して頂いた。また、明細書などを丁寧に添削指導して頂き、受験勉強などのブランクにより少々カンの鈍った明細書作成スキルを取り戻すことができた。不出来の私を採用し、鍛錬して下さったS・T先生には感謝の言葉しかない。  

 その後、結婚などを経て比較的安定した生活を送っていた平成12年(2000年)の2月頃、経産省の出先機関である北海道経済産業局から故郷である北海道札幌へ戻らないかというお誘いを、札幌で既に特許事務所を営んでおられた弁理士のS・S先生を通じて頂戴した。
 弁理士のS・S先生は、私が札幌で平成7年に独立開業を図った際に知り合った方で、私の存在を心に留めておいて下さり、札幌に戻る話を関東在住の自分に振ってくれたのである。平成7年当時は独立開業という夢を果たせなかったものの、その開業しようとした行為そのもの自体は、この札幌へ戻る話へと繋がったわけであるから、無駄には成らなかったと云える。人生は何が幸いするか分からないものである。結果はどうあれ、その時々を丁寧に生きていくことは本当に重要なことだと今になって思う次第である。若い頃は、気持の面でも素直さがあり、それが普通に出来た。
 弁理士のS・S先生から紹介して頂いた仕事の内容は、大学等技術移転促進法(いわるゆTLO法)に基づいて設立された経済産業省承認の、北海道ティー・エル・オー株式会社に所属して、北海道全域の大学で案出される発明の権利化及びその技術移転を行う仕事がメイン業務とのことである。

 採用元の財団法人日本テクノマート(後、発明協会に統合)時代の呼称ではあるが、いわゆる特許流通アドバイザー(知財コーディネータ)としての業務で、所属は日本テクノマートで、同法人から北海道ティー・エル・オー株式会社へ派遣されるという形での雇用形態である。私としては、東京での生活も一応安定し、勤務先の所長弁理士先生や、所員の皆様に非常に御世話になっており、且つ家族もいることから大いに迷ったが、前述のS・S先生を初め、北海道ティー・エル・オーの技術顧問のN・S先生、北海道経済産業局の担当官の方から熱心なお誘いを頂戴したこと、又、いずれは北海道に戻って独立したい気持ちも強かったことから、そのお話をお受けした。
 北海道ティー・エル・オー技術顧問のN・S先生は、特許庁の元技監(特許庁の事務方ナンバーワンの役職)という要職を歴任された方で、大学が偶然にも私と同窓の武蔵工業大学(現東京都市大学)出身の先輩であった。このことも、私の特許流通アドバイザー就任に後押しになったと今になって思う。人生には幸運が何度か訪れるというが、当時の私は、そこまでの感触を持つことができなかったが、今思えば北海道へ戻って、本当の意味での独立を果たす切っ掛けとなる転機であった。
 平成12年当時、N・S先生とは赤坂のANAホテルで初めて面談させて頂き、その結果を踏まえ、私を強力に北海道経済産業局に推薦して下さった。 かような経緯・次第で、財団法人日本テクノマートに平成12年6月1日に移籍し、東京は御徒町で1か月の研修を経て、同年7月に当時、札幌駅北口前のビルにあった前述の北海道ティー・エル・オー株式会社に着任した。
                         第7回に続く

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