本文へスキップ

いわき特許事務所は特許・実用新案、意匠、商標を専門とする事務所です。

TEL. 011-588-7273

〒005-0005 札幌市南区澄川5条12丁目10-10

コラムCOLUMN

「我が職業人生奮闘記」 岩城 全紀

番外編
~私にとっての弁理士試験
【後編】「弁理士となってから」第四章の2
・資格取得よりも実務経験を優先
 私の持論として、実務経験を経ることなく単に資格試験だけを目指すのは、その仕事が自分に合っているかが分からないのであるから、弁理士資格を先行取得するのは冒険であると考えていた。この点は、あくまで私の持論である。実際には資格試験を先にクリアし、その後、弁理士として立派に大成されている諸先生が何人もいらっしゃるから、それは、あくまで私の考え方であるということを御理解頂きたい。

 というのは、特許事務所で特許担当弁理士のメイン業務ともいえる特許出願用の明細書の作成は、技術論文の作成に似たところがあり、大学の理系学部や工業高等専門学校などで論文を書き、且つ技術者としての実務を経験されてきた方にとっては、「特許請求の範囲」の考え方(これが最も難しいのであるが)を身に付ければ、さほど困難ではないことに起因していると思う。

  要するに科学技術に対して関心(サイエンスアイ)を持つことが出来、且つ文章を書くことに抵抗がなく、ちょっとした図面を起こすことが苦にならないのであれば、特許弁理士の仕事に対しての適性はあると考えてよいだろう。弁理士試験の合格後に、特許事務所に勤務して特許又は商標の実務を習得することは意欲さえあれば十分可能であり、私の受験生仲間でも実務に携わる以前に合格を果たし、その後、事務所を開設するなどして、立派に知財業界に貢献されている方が多いのも頷けることである。また、勉強に手間暇のかかる弁理士試験を受けようとする方は、そもそも優秀な方が多いというのも理由の一つであろう。

 その一方、弁理士試験には合格したが、その仕事になじめず登録を抹消したりする人も居ることは事実であるから、これから弁理士になろうという方は仕事の内容は十二分に吟味しておく必要はあろう。特許弁理士の場合は明細書の作成が基本業務となるが、この仕事は技術が複雑化した今日、相当の根気・気力が要求され、新しい案件に取り掛かる際には気持のリフレッシュ及びリセットが毎回必要となる。また、技術的知識の深さが求められる事は当然であるが、特許法並びに実用新案法、意匠法、著作権法、不正競争防止法等の知的財産法を十分に理解した上で対処することが必要であるし、外国出願が予定される案件の場合は、出願国の法制を考慮した記載内容としておく事も求められる。

 正直にいうと自分の子供には後を継がせたくないと思ってしまう部分もある。しかし、後述するように、理系出身者にとって独立し易い数少ない国家資格であるし、外国での特許権若しくは商標権等の権利取得をサポートする機会も数多い。従って、知識欲が旺盛で我こそはという方には是非挑戦してほしい仕事であるといえる。近年は弁理士に加えて弁護士も、この知財の業界に多く参入するようになっており、法律特許事務所を名乗る大事務所が出現する一方で、中小の特許事務所は厳しいビジネス環境になっていることは心に留めておいてほしい。

・私にとっての弁理士試験
 私にとっての弁理士試験について少々触れたいと思う。私は平成元年から計6回の受験を経て平成6年に最終合格を果たし、結果的に弁理士になることができたが、弁理士試験は大学などの入試と異なり受験回数の制限がなく、自己のペースで勉強を進められる点が私にとって幸いしたと思う。大学入試の場合も確かに回数制限はないが、社会的事情から自ずと精々2,3回に限定されるだろう。その点、弁理士試験は仕事をしつつ、徐々に知識を向上させていくことが許容されており、自分が諦めさえしなければよいわけである。十数回を経て弁理士となった方もいらっしゃるし、私の場合は受験回数6回と、それなりの期間を要している。しかし、家庭その他の事情で受験勉強を断念しなければならなかった方が居るのは事実であり、私は、そのような方達の分まで頑張らねばならないとも感じる。

  弁理士試験勉強中は、私に対し、試験には受からないだろうといった陰口を受験仲間から叩かれていたこともあったが、私自身は平成2年に初めて一次試験の多肢選択式試験を突破したことが大きな自信となり、知識が充実さえすれば絶対合格できるという気持を常に持っていた。他人の批評というのは元来無責任なものである。自分の可能性を信じてあげられるのは、結局自分しか居ない。最大の難関である二次試験で、自身が納得のいく答案さえ書ければ合格できると信じ続けられたのである。私の場合、克己心を如何に発揮するかということが課題であり、他人がライバルという感じは持たないで済んだ。

  私は受験勉強の当初、暗記力がモノを云う、いわゆる典型問題が苦手で、当時の二次試験(論文試験)の答案用紙だったB5且つ10枚全ページ(1問当たり)を埋め切る筆力はなかった。しかし、捻りの効いた問題は意外と得意であり、Mゼミの答案練習においてもA・W先生やT・O先生には良くほめて頂いた。自分としては工業所有権法に対し理解力があると自負はしていたのである。資格試験の短期合格には、必要な知識を早期に充実させるという作業(つまり典型問題などのレジュメ暗記)が必須であるが、私の場合、生来の怠け者且つ大学受験時もキチンとした勉強をしたことがなかったせいで要領も悪く、その作業が遅れてしまったことは否めない。それが、合格まで受験回数6回を要した原因ではある。

 弁理士試験は、一次試験が5月下旬、二次試験は7月下旬の暑い盛りに行われ、合格まで6年(平成元年~6年)を要した私にとって、その間、毎年行われる一次、二次試験はイベントのようなものであった。ご参考までに、私の受験生時代のスケジュールを記すと以下の通りである。年が明けると論文試験用(二次試験)の答案練習会(私はY塾やWセミナーを利用していた)が始まる。この答案練習会は、週1度の模擬試験形式で各法3ラウンドの計15回(15週)が行われる。答練の受講に際しては、事前に各法のレジュメ(主に典型問題)の見直し作業を行い、記憶の確実化を図る。答練は仕事の終わった19時頃から飯田橋の会場で始まり、各法2問を合計2時間で答案作成を行う。答練の結果は翌週に採点されて返却されるとともに上位者の名前が公表され、受験生にやる気を促すと云った仕組みであった。

 そして、論文答案練習会が終わる4月上旬頃になると、一次試験の多枝選択式試験の勉強を始める。この勉強はY塾の多肢答練の問題を利用したり、過去問を解きながら条文を精読して記憶の定着を図るとともに、規定の制定趣旨を同時に意識することにより行った。この時期に色気を出し、当該試験の勉強を疎かにすると簡単に一次試験で敗退するので、気を付けなければならない。私は平成2年の合格経験から翌平3年の試験時に油断し、二次試験に進めなかったという苦い経験がある。受験生の世界では一次試験合格者と云うのが、実力を図る一つの物差しになることから、とても惨めな気持に陥ったものである。
 一方で、首尾よく5月末の一次試験を突破出来た場合は、7月末の二次試験(論文試験)に向けたスパートの時期となる。当時、私は平成2年、4年、5年の二次試験を受験して全敗したが、それらの二次試験はエアコンの無い大学が試験会場であり、汗だくになって答案を作成したことは、今となっては良い思い出である。私が最終合格を果たした平成6年の二次試験は、エアコンのある会場(東京理科大学・飯田橋校舎)で試験が行われ、北海道育ちの自分にはラッキーだった。試験に合格するためには、一種の幸運も必要である。当時の三次試験は、二次試験合格者に対して11月下旬に行われたが、一種の人柄試験的な側面もあり、弁理士試験の最大の天王山は、論文での記述が必要な二次試験である。 しかし、平成6年の合格時の二次試験では、今までの勉強の蓄積を答案用紙に反映させることができた。この時は課題であった筆力も向上していたし、且つ本番という緊張感も良い方向に作用して気合・気力が充実し、答案用紙に文字を細かく書くなどして記載量をコントロールするなど、必須科目及び選択科目計8科目の全16問において、余裕をもって納得のいく回答ができた。

 平成6年の論文試験(二次試験)での対処法の具体例を挙げると、他の受験生が、どのように題意を把握するかという事をも意識し、書かなくても良いと思われる点も記載した。本来の題意からは不要とも思える事項であったが、一般の受験生が書きそうな事は、あえて記載したのである。つまり採点基準が変更されることも場合によってはあり得ると予測し、点数は伸びないかもしれないが、落ちない答案を作成することに徹するなど、この年の試験では知識に加え、気力も横溢していた。1週間に亘った試験の終了後は、やり切ったという充実感があり、このような充実感は大学受験では勿論なかったし、生まれて初めての事だった。つまり、私にとって準備に準備を重ねて事に臨み、成功したというのは弁理士試験が最初だったのである。

・弁理士試験合格後の生き方
 一方で、受験回数に制限がないからといって、勉強を漫然とノンビリやっていたのでは合格は到底覚束ない。自分の実力がピークとなったときに合格できないと、ダラダラと勉強を続けることになりかねないことは、注意すべきである。弁理士資格を得るには相当な犠牲が必要であるし、資格を取った先には実務の習得、更なる研鑽、転職、独立すべきかなどの人生の転機・選択が待っている。弁理士資格の取得は、多くの受験生にとって知財の業界で生きていけるという、単なるパスポートというか、つまり必要条件にしか過ぎないといえる。プロ野球で例えると、ドラフト会議で指名され、とりあえず球団に入団する際の資格といった感じで、その後活躍できるかどうかは、本人の実力・努力次第である。
  要するに、一人前の弁理士になるには合格後、相応の期間及び修練が必要であり、従って早期に受験勉強を終えられれば、それに越したことはない。しかし、個人個人の置かれている状況は異なるであろうから自分に合ったやり方を見つけるしかない。
  知財の業界人には、企業に所属している人、特許事務所に所属している人、知財業界にこれから参入しようという人、大学等の教育研究機関に所属している人など様々である。私は特許事務所に所属して居たわけであるが、仕事イコール資格という環境であり、その点、弁理士試験の勉強が実務に直結しており、相乗的に理解が深まった側面は確かにある。つまり、仕事で特許出願用の明細書や意見書等の文章を作成することは、受験勉強で得た知識を明細書等に反映させるなど、弁理士試験の間接的なトレーニングになったと思う。
  私の場合、合格時の知財に対するレベルは、特許出願用の明細書の基本は知っていたが、各種の事務手続とか技術的知識はかなり不足しており、前述のプロ野球に例えると、高卒新人とまではいかないが、社会人野球を2,3年経たルーキー程度といったところだった思う。

 私の場合、概ね一人前の弁理士になったと実感できたのは、北海道ティー・エル・オー株式会社で勤務するようになった2000年(平成12年)以降といえる。私は仕事面でも比較的奥手の方であり、東京での特許事務所勤務時代は半人前の域を出ることが出来なかったと今になって思う。ティー・エル・オー勤務時には、私に指示をする上司は事実上存在せず、自分で考え判断して仕事を行わざるを得なくなった事が、自身にとっての意識革命に繋がった。事務所での勤務時代は能動的に仕事をすることが少なく、与えられた仕事を所員として受動的にこなしていたことが、一人前になることが遅れた要因だったと思う。

  要は私の場合は、環境に左右され易く、切羽詰まらないと気合が入らない性質と云うことができる。かような次第で個人差はあろうが、私の場合は一人前の弁理士になったと実感できたのは、知財の業界に入った26歳のときから少なくとも12,3年程度の歳月を要したと云える。勿論、弁理士の仕事といっても様々であり、事務所であれば特許弁理士の場合、明細書の作成や拒絶理由への対応手続(いわゆる中間処理)、侵害の成否の判断などがメイン業務だし、企業等の場合は、発明発掘や技術契約、関連先行技術のウオッチングなどの知財管理が業務の中心になると思う。事務所にせよ企業にせよ、ケースバイケースでの対応が必要な仕事であり、十分な対処力を身に付け、それを維持していくには引退するまでエンドレスで研鑽が求められるし、それ相応の場数を踏むことが必要になると思う。

  なお、特許実務や知財管理などの実務に関し、既に十二分に経験を積み、習熟している方が試験を突破して弁理士になった場合は、専門家として、即戦力として、ひとり立ちできることは、いうまでもないだろう。但し、知的財産の業界に生きる上で、弁理士になることは必ずしも必須ではないとも思う。特許事務所等では所長や知財部長の片腕となって弁理士顔負けの活躍をされている方は、ある程度の規模の事務所、若しくは企業の知的財産部には居らっしゃるものである。そのような事実から資格の取得は必ずしも必須とはいえず、その人の置かれている環境や、目指す方向性に合わせていけば良いと私は考える次第である。私の場合で云えば、故郷北海道での独立開業という目標があったことから、どうしても資格の取得は必要だった。要するに弁理士資格というのは、特許事務所を開設する際に要求される開業免許ともいわれる所以である。

 
             第10回(最終章)謝辞 に続く

バナースペース

いわき特許事務所

〒005-0005
札幌市南区澄川5条12丁目10-10

TEL 011-588-7273
FAX 011-583-8655