その一 謝辞 以上、云いたいことを述べてきたが、私が弁理士となり、特許事務所を開設し、事務所業務を続けて行けるのは多くの仲間の支えがあってのことである。特に、受験生時代、個人ゼミを作って下さったA・W先生、並びに、そのゼミでT・O先生やM・S先生が貴重な時間を割いて講師となって指導してくれたことには感謝の一語に尽きる。A・W先生、やT・O先生とは、当時ゼミ仲間で借りていた賃貸マンションで寝起きを共にして勉強し、ゼミが終わった後に一杯やって将来の夢を語り合ったりするのが通例だった。このような事も受験生の私にとっては、生きていく上での大きな支えであった。 仕事面については、未経験の私を採用し、実務習得の機会を与えてくれた特許事務所の所長弁理士のK・M先生、Z・K先生のご恩も忘れることはできない。弁理士となってからも事務所勤務時、並びに特許流通アドバイザー時代に知り合った数多くの友人にも貴重な示唆を頂いている。 私は、そのような仲間に恵まれたおかげで弁理士試験の受験勉強が辛いと思ったことは余り多くなく、自惚れと言われるかもしれないが比較的楽しく且つ真剣に打ち込むことが出来、自分には適職だったのかなと改めて理解している。勿論、今だから、そう感じる面もあり相応の我慢があったのは事実である。私は多くの幸運に恵まれて弁理士となり、事務所勤務の他、北海道ティー・エル・オー時代は技術移転の仕事や各種助成制度の審査委員、北海道庁へ知的財産方策を答申する委員なども経験することができた。正当性をもって積極的に行動することは僥倖に繋がるのだと今になって思う。 また、私がお付き合いさせて頂いているクライアントは、前述したように中小企業が主であり、当初はキチンとした図面がなかったり、試作品が先ず最初に出来上がって設計図は後から作成するといったケースも多々ある。このため、出願図面の製作を依頼している作成会社の、T・G氏、R・S氏には、試作品の写真などから、緻密な特許図面や意匠図面を起こして頂くなど大変な御苦労をお掛けしており、この点も大いに感謝している。 R・S氏を紹介して下さったのは、受験生時代にパテント杯という野球大会のときに出会った弁理士のS・M先生であり、同先生には受験勉強に際して様々な示唆を頂くとともに、又、事務所の運営面に関しても多くの助言を頂戴している。 私一人だけの力で特許事務所の業務は成り立つわけがなく、周りの様々な方々のお世話になりながら、仕事を続けているのである。勿論、私が各種の書類を提出している特許庁の審査官の方、方式審査等を行なっている方にも不備な点を指摘して頂いたり、書類の作成方法・方向性を御指南頂けることは、地方で事務所を営む弁理士にとって非常に有難いことである。 さらに、私という人間を見込んで、大切な発明の特許出願や、新たなネーミング等の商標登録出願などを任せて頂いている多くのクライアントには、心から感謝を捧げたい。報酬を頂戴することは勿論、私にとって知財の仕事とは自分の可能性を追求し、自己実現を果たすことでもある。打ち合わせ時、クライアントが案出した新技術や新ネーミング等に関するビジネスプランや夢に接することは、自分にとってワクワクする気持ちを高め、生きていく上でのエネルギーを頂戴できる。そして実際に権利を確立できたときは、大きな達成感を得ることにもなり、クライアントとの交流は私にとって栄養である。 結果的に、実務経験を積むことと並行して弁理士試験の受験勉強を行ったことで、多くの知己に恵まれ、前述したように一人事務所という形態ではあるが、人的ネットワークの助力があることで、地方である北海道にて弁理士が自分一人だけの特許事務所を営み、知財の専門家として生きていくことが曲がりなりに出来るようになった。また、外的要因としては平成7年頃から普及したインターネットによる各種の情報取得の容易化も、事務所業務を進める上での追い風となった。 多くの友人と知り合った時期と云うのならば、私の場合、受験生時代の6年間に集中、或いはその時期に知り合った友人を介しての紹介、という形が多いことに思い至る。受験生時代は弁理士であるという気負いもなく、若かったこともあるが、気持の面で素直だったということが、やはり考えられる。弁理士になると、妙なプライドが出来てしまい、心の底から腹を割っての付き合いができなくなったのかもしれない。初心、忘れるべからずである。 本稿は、仕事の事を記録しようと思って書き始めた備忘録ではあるが、どうしても弁理士試験受験生時代の自分を思い返してしまう。受験生時代は私にとって、それほど強烈な一時期であり、人間として弁理士として、生きていく上での基礎となっているのである。あのように燃えて勉強し、実務を吸収したことは後先にはなく、そのような点が、ある意味貯金となって事務所を自営している今現在に生かされていると思う。困難な仕事に直面した場合でも簡単にあきらめず、プラス思考で何とかしようという気持で対処できるようになったのは、受験勉強や特許事務所勤務時の経験を通じて精神力が鍛えられたお陰だと感じる。 私は、北海道の片田舎の育ちで、高校受験はもとより大学受験時も大した勉強もせず、卒業した大学にしても一流ではないし、且つ学士の資格しかない。昨今の弁理士の場合、一流大学卒或いは修士課程を修了している方が多いことに鑑みれば、学歴的には不十分ともいえる。しかし、弁理士試験の受験勉強の際に、憲法及び行政法といった法律系の選択科目を初めて勉強したことは、自分にとって新たな眼を開かせてくれたし、技術移転や共同研究などに際しての契約行為に関し、北海道ティー・エル・オーや北見工大での実務に携わることで知見を拡げることができた。また、弁理士会の委員会や、その他の研修に積極的に参加することで、大学院で学ぶ以上の勉強をしてきたという自負心は持っているのである。 受験勉強当時、勤務先の先輩弁理士であるT・A先生から云われたことであるが、受験勉強に苦労し、人より多く時間を要したとしても、その分は弁理士としての正味(賞味)期間を延長することに繋がるという、妙な励ましがあった。確かに、そのような部分はあると思う。受験期間中は即効的に成果の上がるレジュメ暗記だけではなく、前述のA・W先生のMゼミにおいて、条文を始め青本や特許法概説といった基本書を丁寧に読み込んで受験生仲間で議論したり、難問を答練することを重点的に行った結果、その知識・論理性を実務にも活かすことが出来たと思う。つまり、私の場合、受験勉強の知識を仕事にもフィードバックできたため、相乗的に理解が深まったのである。短期間の合格ではなく勉強に時間を掛けることは、回り道のように思われるかもしれないが特許法等に関し理解度の高さをもたらし、又仕事に対する丁寧さ、丹念さ、良い意味での執念深さにも繋がって顧客からの信頼を得ることにもなり、このようなことが前述の先輩弁理士のいった本質であり、苦労して取得した弁理士資格ゆえ、その仕事を丁寧に続けて行こうというモチベーションになるのではないだろうか。 本音をいうと、私の場合、限られた時間で仕事を行わなければならなかったサラリーマン時代が、自分にとって苦痛な事も多かった。 しかし、完全独立した2005年以来、個々の案件に時間を掛けて対処したい自分にとって、他人の意見に左右されない独立という形態が自己に合っていたと思われ、受任した個々の仕事に対して誠実に向き合うことが習慣として身につき、結果的に弁理士の仕事を自分の天職であると考えることが出来るようになった。つまり、独立したことは私にとって良い方向に作用したと思う。この点、あくまで私には独立自営が向いていたという前提ではあるが。 独立自営は金銭面など苦労も多いが、自分の城をもち、精神的に自由であるということが最大のメリットである。独立は万人に勧められる事ではないが、私の場合はサラリーマンを経験した上で、自身の適性に鑑みて生き方を選択した。人手を余り借りず、人件費負担や家賃負担を最小限にしつつ仕事を進められるのが、この仕事の良いところで、結果的に「自由しかし孤高」且つ「小粒でもピリリと辛い」といった存在を目指すこととなった。 ある程度の年月、弁理士業務に携わった実感であるが、私は収入を多く得るために弁理士になったわけではなく、少々宗教じみた言い方ではあるが、自分のソウル(魂)を満足させることを一義にすべきと最近思う様になっている。即ち、自分は楽しみながら無理なく事務所経営を続け、自分の生活に支障がなく、クライアントにとって重荷にならない程度の報酬を頂戴し、クライアントには安心感をもって事業を継続して貰えるように知財面を処置していければ良いと考えるに至っている。つまり、弁理士の仕事は、企業にとって取引秩序を維持するための交通整理のようなものと思うのである。 私の場合、ガチガチに立てた事業計画では事務所の運営は却って上手くいかなかったろう。成り行きといえば言葉は悪いが、北海道ティー・エル・オーの勤務時に副業として行っていた自己の特許事務所の業務が徐々に多忙となって、独立せざるを得ない状況が結果的に生まれ、その流れの中で自分のライフスタイルを、サラリーマンから個人事業主へ変えてきたという事である。このことが良い意味で精神的な余裕や自由度を自分にもたらし、仕事に集中できた要因ではないかと自己分析している。人生には親しい人との別離など様々な苦難があり私も経験してきたが、そのような困難を仕事に集中することによって何とか乗り越えてきた。私にとって知財の仕事は自分を成長させるエンジンともいえる。 弁理士にとって最も良い時期、つまり「弁理士の旬」は、個々の弁理士によって異なるが、思うに明細書等を作成している実務家の場合は、技術的知識やビジネスマインドの充実度、案件の処理能力がピークに達する40代から50代あたりだろうか。一方で、中規模から大規模の事務所の場合では、経営者・管理者としての仕事、つまり営業能力や事務所の運営能力が必要とされるだろうから、その旬は実務家の弁理士と異なることは当然であろう。 小生の場合は、どちらかというと実務家としての比重が大きいと思わることから、私にとっての「弁理士の旬」は、特許出願や意匠、商標出願等、案件の年間処理件数がピークに達し、弁理士会内の知的財産支援センター、知財経営コンサルティング委員会や意匠委員会で活発な対外的活動を行っていた40代前半から50代半ば過ぎの十数年間だったとも思う。今の自分は、ビジネスマインドや、特許実務に関連する各種の技術的知識、事務的知識に関し、経験を積むことによって充実度は深まってきているように感じるが、使っていない鍵は錆びてしまうという諺もある。 年齢的にはクライアントに迷惑を掛けることなく、穏便に事務所を次世代に引き継ぐという事を考えるべき年代に差し掛かっている。 その二(今後の抱負) 弁理士の「成功」とは何だろうか。私にとって、その答えは未だに出ていないが、収入を多く得ること、或いは弁理士会の役員になって会務に携わり弁理士の地位向上に貢献するなど、「成功」とは各自の価値観に左右され、個々人によって異なるのだろうとは思う。私の場合、2000年に北海道ティー・エル・オーへ赴任し、故郷である北海道に帰って来たとき、地域への「貢献」を意識した。ティー・エル・オーで技術移転を成功させて知的創造サイクルを回し、世の中に役立つ研究・発明を生み出す一助になりたいと思ったものである。その気持ちは独立して事務所をやっている今も変わらない。 しかし、特許権の取得には過酷な技術の開発競争が伴う場合もあるし、商標権についてもブランド化を図って競合製品と差別化し、高収益を確保するという大義名分がある。正当に努力した組織なり、個人は報われるべきとは考えているが、過当な競争は人間・関係者に消耗を強いたり様々な歪をもたらす部分もある。かような事から、庶民派の私としてはクライアントには競争ということを余り意識しない様に、事業を安定・安心感をもって進めてもらえるよう知財面を処置してアドバイスを行い、且つ自身の健康を維持しながら、弁理士として長く北海道に「貢献」し続けるということが、私にとっての「成功」であると思っている。 話は、やや飛ぶが、昨年の2024年2月に物故された指揮者の小澤征爾氏は、晩年となった2023年の秋、ジョン・ウイリアムス氏のコンサートの際、体の自由が利かなくても車椅子で聴衆の前に姿をあらわし、我々を勇気づけてくれた。また、南海ホークスで活躍した野村克也監督は45歳という、スポーツ選手としてはボロボロになる年齢まで野球選手を続け、その後の監督業でも大きな成果を挙げられた。野村克也監督の選手引退時の言葉として、「貢献できる場がなくなった」と仰っておられたのが、私は印象に残っている。 このような方たちには到底及びもつかない自分ではあるが、多少でも「貢献できる場がある」限りは、弁理士であり続けようと決意している。 前述したように私の場合、しっかりとした特許事務所設立計画はなく、四苦八苦しながらではあるが、特許権や商標権取得のサポートを行い、又、クライアントに対する侵害警告などの難題に対処し、好結果を生むことで安心感を持って事業を進めてもらえる様に処置できたことなど、比較的幸運にも恵まれている。 我々弁理士はライバル企業が自己(クライアント)の特許等を侵害していると主張し、クライアントからライバル企業に対し、警告状などを送付してほしいと依頼される場面にも遭遇する。しかし、その際はライバル企業の製品と、クライアントの特許権等の権利範囲とを、冷静且つ慎重に見極めることが先ず先決となる。 そして、侵害に該当しないと判断される場合、ライバル企業に対し、安易に警告状を送付するようなことは厳に慎まなければならない。不要な警告状の送付は、送付先企業の業務妨害に該当することも十分ありえる。血気にはやるクライアントを説得することも時には必要なのである。 弊所は他社に対し、積極的に権利侵害の警告を行うことは余り多くなく、どちらかというと侵害警告を受けた企業側からの相談が多いのである。相談企業が他企業の権利を侵害していると判断される場合は、その旨を相談企業に伝えて設計変更などを促し、侵害を回避する方向にもっていく。しかし、現実には侵害に該当しないにも関わらず、言いがかりの様な内容での侵害警告も間々ある。そのようなときは、回答書を内容証明で他企業に送付して侵害には該当しない旨を、論理的に且つ分かりやすく根拠を示して主張する。これによって大体は収まるものである。 私にとって達成感を得ることができたのは、弁理士試験の合格が初めてであった。学歴的には決して一流ではない自分であったが、弁理士資格の受験生時代に有名大卒の方々とのディスカッションや答案練習といった切磋琢磨を経験することで、自分も意外とやれるんだといった自信を深めることが出来、このような手応えが受験勉強を継続したり、知財の業界で生きていく上でのバックボーンになっている。 今後も新たな目標を設定し、年齢的な面も考慮しつつ、出来るだけ長く弁理士の職務を続け、生涯一弁理士を目指したいと考えてはいる。しかし、令和7年には小生、弁理士登録30周年(知財の業界に入って丸37年)という節目を迎えることになる。自分としては知財という分野において、長期間にわたり良くやってきたという感慨もある一方で、それだけ年齢を重ねたということも事実である。 年齢・経験を重ねることで仕事に関しては、若い頃よりも知識的に充実し、一たび取り掛かれば良い仕事をする自信はあるが、還暦を数年過ぎた今、以前よりも出来得る仕事量や意欲が衰えていることは正直に告白させて頂く。私の場合、独立以来、一貫して弁理士一人事務所であり、このため処理してきた案件数も限られてしまったという後悔も多少あるが、普通の平凡な弁理士には成れたかなとは思っている。 大過なく弁理士登録を維持して30周年を迎えられたことは誇っても良いことだと考えているが、登録50年を超える諸先輩もおられるわけで、私なぞ小僧といったところではある。 かような心境の変化もあり、これからは仕事に加え趣味の分野、具体的には音楽鑑賞(クラシック、その他の音楽)、当該音楽を鑑賞するオーディオ装置や自転車旅行、スキーなど、私という人間を育んでくれた、これらの趣味にも注力しつつ、仕事と高レベルで両立させるというのが今の私の目標である。 仕事にせよ、趣味にせよ、体が資本であることは言うまでもなく、いつまで出来るかが今後の課題となるが、晩節を汚さず、「TOO LATE」とならないよう、足るを知るということを肝に銘じ、歩んでいきたいと考えている。 完 |
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